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会田誠『「色ざんげ」が書けなくて(その一)』

「オナニーとはセックスの前段階にある代替品ではなく、独立した価値を持つ人生の目的そのもの」と言う、天才美術家・会田誠が考える「性」のあれこれ。

 「オナニー」については愛溢れる言葉を尽くし、「セックス」については、おそるおそる言葉を選ぶ。 それは、「あんなクレイジーなこと赤の他人とできるわけない」と考えていたハイティーンの頃の気持ちが抜けきれないから――。

 オナニー方法と妄想の遍歴、セックスに対していまなお抱く違和感、そして会田作品における性の意味まで赤裸々に開陳。

*   *   *

「性」について思いつくままダラダラと書いてみようと思います。性的なるものとか、性欲について。

 具体的行為としては「オナニー」と「セックス」がありますね。詳しく体験的に書けませんが「同性愛」もある。番外地には「レイプ」というものもあってしまい、これも避けて通れない話題でしょう。

 あと「ポルノ」という文化もあります(そんなもの文化じゃない! という人も、特に女性には多いでしょうが……)。

 いずれも大問題ですよね。というか「小問題なのに大問題、あるいは大問題なのに小問題」とでも言うべき、なかなかやっかいな問題です。政治や経済は「ワシは当然の如く大問題じゃ、えっへん!」みたいな顔をしてふんぞり返っているけど、それらはホントは性に比べたら表面的な問題に過ぎないと思うのです。

 性の方がこの世界のベースに属してる──それは子供向けの動物ドキュメンタリーを見るだけでも、誰だって理解できます(だからわざわざ書かなくてもほとんどの人は分かってるんでしょうけど、まあ念のため──)。植物でも動物でも、生命の第一義は自分のコピーを作ること=子孫を残すこと。アメーバが分裂するあのイメージ。それが高度な生き物になるほど、求愛行動や子育てや縄張り争いや、果てはなんだか暇つぶしに見える毛繕いまで、やることが複雑になるから分かり難くなってくるけど、「生の一番大切な基底に性がある」ことに変わりはありません。それは地球に生きる生き物の一種である人間だって同じです。

 にもかかわらず、大脳が肥大して複雑な社会メカニズムを作っちゃった人間にとって、性はもはや素朴な動物的本能からかけ離れた、イビツな姿になっているのもまた事実です(ああこんな大問題、たとえ軽口のエッセイにしても自分は書ききれるのだろうかと、早くも後悔……)。

 性は大問題──なのに白昼堂々と喋れない雰囲気があります。不思議っちゃ不思議ですね。マジメな仕事の時間がオフになり、居酒屋に行って酔っぱらい、「あくまでもプライベートな与太話として聞き流してもらわないと困るんだけどね……」なんて前置きしてからでないと、なかなか始められない類いの話。僕は勤め人じゃないし顰蹙買うのは慣れっこだから、やれないこともないんだけど、それでもまあ、必要なければ白昼堂々チンコマンコの話はしませんね。こんな僕にも社会通念のガードが働いているとも言えるし、夜のプライベートな愉しみに取っておいているとも言えるし……。

 だから性の話をこういう公の場で堂々と書くのは抵抗感があります。夜読む人もいるだろうけど、昼とか爽やかな朝に読む人もいるでしょうから。そういう抵抗感には何か人間的な理由がありそうなので、無理に無視して赤裸々にぶっちぎるのではなく、それを噛み締めながらウジウジ綴っていこうと思います。

 今でこそ僕は「スケベーな絵描き」というポピュラリティ溢れるありがたい(でもちょっと迷惑な)称号を頂いておりますが、昔からこうだったわけではございません。美術大学の学部に4年間通い卒業制作を作るところまで、モロに性的な作品を作ったことはないのです。

 初めて作ったのは、大学院に進学した直後に作り始めた、『犬』という“疑似日本画風”絵画のシリーズでした。ご存知の方もいるかと思いますが、前回森美術館でやった僕の個展に出品し、いくつかの団体からクレームを受けた、一部には悪名高い作品です。

 なぜそれまで性的な作品を作らなかったかというと、自分の身丈に合わない「哲学的な作品が作りたい」という望みを抱いていたことなどもあるのですが、なんだかんだ言って僕も“真面目な美術大学の一学徒”に過ぎなかった、という面が大きかったと思います。

 例えば学生時代にやっていたバイト先(深夜の喫茶店)で、休憩中に先輩(地元の不良上がり)とこんな会話をするわけです。

「会田くん、美術大学に通ってるってことはさぁ、やっぱりあれ、ヌードとか描くわけ?」

「はい、授業では描かされますね」

「じゃ、ホントに裸のモデルが来るんだ」

「ええ、まあ」

「すっげー! で、興奮とかしないわけ?」

「う~ん……しないですねえ。なんか、そうゆう雰囲気じゃないんですよね」

 僕のノリの悪い返答で、この話題終了……。

 美大生にはお馴染みの、一般の方との典型的な会話だと思いますが、ここで僕は嘘を言っているのではないのです。事実、美大のアトリエでは、一糸纏わぬ女性が台の上で寝そべっていて、角度によっては女性器が丸見えだったりしても、不思議とエロい雰囲気がしないものなのです。

 なぜでしょう?

 う~ん、自分で設問しておいて、いきなり難しい……「なぜならそれが“美術”だから」としか答えようがない……。

 今言った“美術”をもっと正確に言えば、「西洋近代の美術史家たちが規定し、日本には明治になって入って来た新しい概念」ということになります。そしてその橋きよ頭うと堡うほとして機能したのが、他ならぬ美術大学でした。そしてその西洋規定の“美術”の中に、重要な要素の一つとして“ヌード”というものが、あらかじめセットとして含まれていました。そこにはルネサンスの“人間中心主義”や古代ギリシャの“肉体の理想が精神の理想を表す”といった、西洋文明の歴史的蓄積があるんでしょう(詳しくは美術史家ケネス・クラークの『ザ・ヌード』あたりから読まなきゃならないんでしょうけど、勉強嫌いなもんで……)。

 もうちょっと卑近な例を出すと、どこの駅前ロータリーにも必ずあるブロンズの裸婦像──あのいかにもな「ザ・近代美術」の雰囲気──あれを思い浮かべてください。ああいうものが街中に堂々とあっても良い理由は何か? それはもちろん「芸術だから」。そしてその芸術とは「“自由”とか“ヒューマニズム”といった、近代以降の新しい西洋産の価値観を体現してくれる、尊いものだから」。

 そういう明治っぽい黴の生えた考え方は、さすがに昭和も終わったばかりの頃に美大の院生になった僕は、無縁のつもりでした──意識の表面では。けれど、僕とバイトの先輩とのあまり噛み合ない会話からも分かる通り、根の深いところでは搦め捕られていたのです──美術大学や美術界の常識やノリに──さらにその奥にある、西洋近代が規定した“芸術”という枠組みに。

 若い日の僕は、それをなんとか壊したいと願っていました。そしてある日ふと、

「異性の裸を描くんだから、エロ目線でやるのが当然じゃないか。あのバイトの先輩を思い出せばわかる通り、“芸術”の一歩外に出たら、それが世間の常識なんだから……」

 と思いました。これが『犬』シリーズを発想したきっかけです。こんなささやかで当たり前な思いつきですが、真面目すぎる美大生だった僕にとっては、「なんで今まで思いつかなかったんだろう!」という、ちょっとしたコロンブスの卵的体験でした。

 そこで思い出したのが、僕が専門的に美術を学ぶ上京以前、新潟の実家で親に隠れてコソコソとアイドル写真などを参考に描いていた、恥ずかしいエロ絵の数々でした。「あれこそ我が絵心の真の故郷ではないか!」と思ったのです(ここら辺のことに関しては、以前『マルクスの奥にエロがあった』というエッセイで詳しく書きました)。

 ソフトなエロでは“従来の芸術”と紛れてしまい、問題が先鋭化しないので(詳しく書きませんが、そういう“芸術のムッツリスケベ”というものは昔からあります。19世紀パリの“サロン絵画”などは酷いものでして)、猟奇的な都市伝説や、古い中国の史実に見られるような“手足切断”という、ヒューマニズムの対極に位置するようなモチーフをあえて選びました。さらに日本画の描画スタイルを用いることも合わせ、「近代の西洋が規定した芸術の概念に(部分的にではあれ)『否』を唱え、戦いを挑みたい」という、現在もなお続く僕の主要な制作動機をはっきり示したつもりでした。

 この『犬』を皮切りに、僕は性的なものをモチーフとした作品をたびたび作るようになりましたが、その“頻度”や“全体に対する含有比率”には、微妙に気を使ってきたつもりです。いくら「生の基底に性がある」と言っても、「人は性のみにて生きるにあらず」ですから。厳然とこの世に存在する性の不自然な隠蔽には反対しますが、不自然な氾濫に手を貸したいとは思いません。

 まあざっくり言って、広い意味で性的なものと何らかの形でちょっとでも関わる作品が、全体の半分もあればいい。そのうちのまた半分が、具体的に女性や少女が出てくる作品。そのまた半分が、未成年にはちょっと見せない方がいい……いわゆる「18禁」というやつでゾーニングされるべき作品(結果それは12.5%)──そんな感じでしょうか。例えば霞が関や兜町がある東京23区における、歌舞伎町のような歓楽街の比率も、感覚的に言ってそんなもんじゃないでしょうか。そんな感じが僕が思う「健全な比率」です。

 僕は「水清ければ魚棲まず」ということわざが好きなのですが、それでも濁れば濁るほど良いと思っているわけではなく、ほど良い濁り=12.5%くらいかな、と思っています。

 では次に、オナニーについて書いてみましょう。

 オナニーは好きですね。オナニーには信頼が厚いです僕、はい。

 もう10年以上前ですが、僕が文芸誌に初めてエッセイを頼まれて書いたのが、「群像」に載せた『オナニー雑感』というものでした。顧みる必要などない、つまらない小文です。けれど初めて与えられた“自分にとっての大舞台”で(初心、忘れたくないものです)、選んだテーマがオナニーだったというくらい、僕にとってオナニーは人生の超大切な要素ということです。

 僕にとってオナニーとは、まずその名称こそが問題なのであります。

 すなわち、僕はドイツ語から来た「オナニー」という言葉の語感を愛しており、行為としては同じものを指すにもかかわらず、それ以外の名称が愛せない、という不思議な現象があります(以下例によって安直と思いつつ、ウィキペディアの“オナニー”項を参照しつつ書きます)。

 まず一般にはオナニーより流通しているかもしれない、英語の「マスターベーション」。好きになれませんね。発話はもちろん、脳内でも滅多に使いません。特に語尾につく「(エ)ーション」の語感に、「オートメーション」「インフレーション」みたいな学術用語的乾きがあって、嫌なんだと思います。その語感は、やってる人を外から冷ややかに見ているものであって、やってる本人の熱をともなった内側の実感をまったく表していません。そんな言葉、実践者として愛せるわけがありません。

 また「せんずり(千摺り)」という言葉の語感も、僕には受け入れがたいものがあります。例えて言うと……運動部の部室のすえた匂いの中、イガグリ頭の男達が股間のイチモツをガツンと握ったまま、機関車のピストンのごとく湯気が出るまでしごき続け、イク時いっせいに「うお~~~!」と雄叫びをあげる……そんな漫画的な絵柄しか浮かんできません。江戸時代の男達が作った、照れ隠しからくる過剰なマッチョ表現です。「だいたい千回擦らなくったってイクでしょう普通。アンタ大袈裟に言ってるでしょ!」って言いたくなるんです。

「自涜」「手淫」なんて言葉もありますね。道徳的タブーを強調することで、逆に仄暗い変態的な香りが強まってくる──そんな言葉ですね。なんか明治・大正・昭和初期あたりの文学の香りを感じさせなくもない。中央線沿線に住んでる江戸川乱歩と夢野久作が好きな“不思議ちゃん”にはお似合いかもしれない。そういう意味では悪くはない言葉だけれど、やっぱり僕とは縁が遠いと言わざるをえません。そんな「古き良き時代」に自分は生きてないという実感が拭えないからです。

 オナニー無害説を説いた性科学者が発案したという「自慰」。「惜しいんだけど……う~ん……」って感じです。やっぱり「慰め」って言葉が、ちょっと偽善的で引っかかります。長らく問題になってる「従軍慰安婦≒セックス・スレイブ」問題にも絡みそうな話ですが、どこかに言葉の誤摩化しを感じるのです。性欲の発露って「慰め」なんて落ち着いたものじゃないでしょう。「慰め」って言ったらなんか「揺れるローソクの火を見つめながら祈りを込めて聴く賛美歌」みたいだけど、そんなしっとりしたもんじゃないでしょう、っていう……。まあそんなわけでイマイチなわけです。

 で、僕にとってはやっぱり「オナニー」なんですよ、圧倒的に。

「色ざんげ」が書けなくて(その二&その三)へつづく〉

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